お経の秘密―「悟り意識」の作業仮説

 最近は瞑想流行りである。ひとことで「瞑想」といっても、その行法も様々であるが、仏教でいうところのそれは、「どこにも行かない瞑想」といえるかもしれない。「どこにも偏らない」と言い換えてもいいかもしれない。

 普段と違ったことをすると、意識の内面でも普段と違ったことが起きてくるのは当然で、聞こえるはずのないことが聞こえてきたり、常人には見えないものが見えてくることもある。

 しかし、仏教ではそれを「魔境」と呼び、厳に退けている。深く深く真っ直ぐに掘り進んでゆくと、途中で横穴がいくつも出てくるのであるが、そのどこにもゆかずに退けて、ただひたすら縦に掘り進むのが仏教の道である。

 

 読経を行うときもその心得が肝要で、お経の意味を考えるよりも感じ取り、響きそのものの中に入ってゆくことが重要である。

 そのようなことを繰り返してゆくと、とても不思議な確信が生まれてくる。どのようなことかを喩えていうと、その内容は広大無辺で釈尊ひとりに収まらず、高い意識の、あるグループが存在しているといったような確信なのである。おそらく多くの先達も、同様の感覚を得て、数多くの仏菩薩と対話を深めてきたのではないだろうか。チベットのタンカやマンダラに表されている菩薩たち。それは単なるイメージや創造力の産物ではなく、何人もの人々が長い修行のプロセスの中で、手にその重さを感じるほどの実感をもってその同じ意識体に触れてきたのではないだろうか。

 お経をあげさせていただいて、どんどん「自分」といったものから離れてゆくと、明らかにそのような「ある意識のグループ」の中に入ってゆくという実感をすることが増えてくるのである。

 

 お経の一連の流れ―すなわちプログラムはたいへん秀逸で、おおむね下のようである。

 

〇「香偈(こうげ)」
 まず自ずからの身と心を念を清める。

 

〇「三寳禮(さんぼうらい)」
 三つの宝――「仏」=目覚めた者と、「法」=その説くところの教えと、「僧」=それを信奉して聴くグループの三つに恭しく礼をなす。

 

〇「四奉請(しぶじょう)」
 道場に、十方の如来、釈迦如来、阿弥陀如来、観音菩薩勢至菩薩をお招きする。

 

〇「懺悔文(さんげもん)」
 道場に揃われた仏菩薩の前で、自分の中に蓄積された罪―それは始まりのない貪り、怒り、愚かさが自分の行動、言動、意識を通して現れているのだということを懺悔する。

 

 以上のプロローグを経てはじめて「オープニング・スートラ」=「開経偈(かいきょうげ)」を唱えて、お経に入ってゆく。


 このようにお経をあげてゆくと、先に述べた意識の領域を仮に「悟り意識」と名づけたとして、「それ」に触れた人々は、おそらく同じ感覚を持つに違いないという、どこからやってくるのかわからない、しかし揺るぎない確信が不思議と湧いてくるのである。

 かつて「大乗仏典非仏説論」という、大乗経典は仏陀が説いたのではないという学説が仏教界の常識を覆したことがあった。しかし、「仏陀」というのはある個人を指すのではなく「目覚めた者」という意味であるから、「目覚めた者が説いた経典」と理解すれば、それはいわゆる学説の中で語れる範囲のものではないということになるのかもしれない。お経をあげながら感じ取ってゆく感覚は、明らかに「仏説」なのである。

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