遺言コンサルタントの行政書士の方から質問を受けた。日本篤志献体協会の事務局から質問があったので確かなことを知りたいということであった。
言葉の意味としては、享年は何年生きたか、行年は何歳まで生きたかと聞いた覚えがある。そしてその用語とは別に「数え年」という数え方もある。
享年・行年とは、天・大自然から享(う)けた年数という意味で、この世に存在した年数のことであるが、数え年は生まれた時に1歳、以後正月ごとに1歳加齢して数える。それに対して享年・行年は、誕生日の十月十日前から、死を迎えるまでの年を数えるので、数え年とは時にずれることもある。
また行年は「何歳まで生きたか」という意味なので「歳」をつけるが、享年は「何年生きたか」の『年月』なので「歳」はつけないとも言われる。すなわち、今の私は「行年六十歳」で、「享年六十」という表現となる。
塔婆や位牌に書かれる場合の使い分けは特にある訳ではなく、慣習としての使い分けられ方が主ではないかと思われる。
天から「享けた」というと、自然界にない元素までも作り出してしまう人間は、自然の中で最も不自然な存在なのかと考えてしまうが、それさえも包み込むのが大自然なのだろう。
6700万人を動員した日本万国博覧会開催の1970年に、出版された『植物と人間―生物社会のバランス』で宮脇昭博士は「生物社会の危機」を訴えていた。雑草群落でもバッタやノネズミの集団でも、爆発的に個体数が増加し、自然とのバランスの中で絶対的に優占し、発達しすぎたときが危機である、とある(前掲書。P.13)
私たちが自ら蒔いた種であるからには、それも甘んじて享けるのが当然ではあるのだが、あまりにも事態は深刻である。
しかし、深刻な事態である時こそ、希望の灯を決して絶やしてはならない。宮脇昭博士が『瓦礫を生かす「森の防波堤」が命を守る-植樹による復興・防災の緊急提言-』を上梓された。昨年は震災で中止となった「IGES-JISE市民環境フォーラム」、今年はこれがテーマである。今年も宮脇先生の力強さに触れることができるのはありがたいことである。
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