無縁墓

 罰当たりと言われるかもしれないが、大阪の上町台地の中央に位置する寺で生まれ育った私にとって、境内の墓地は格好の遊び場だった。特に墓地の南側にピラミッドのように積み上げられた無縁墓は、格別な領域であった。幅15メートルくらい奥行き3メートルほどで、高さは家屋の二階くらいの高さがあった。

 夏の夕暮れに無縁墓の上まで登ると、陽の当たっていた墓石はまだ熱を含み、北の方角には大阪城がよく見えた。亡父の話では、大阪大空襲の後には築港まで視界をさえぎる物は何もなかったということであった。

 私が子供だった昭和30年代の頃も、まだ高い建物はほとんどなくて、1キロメートルばかり先の大阪城が見えたのだった。

 

 寺の運営的な面から見ると、無縁墓は不経済だったであろう。しかし、途切れそうな血縁のご先祖を辿って、いつその子孫が訪ねてくるかも知れないので、跡継ぎが絶えたからといってすぐに処分するわけにも行かない。

 代々の檀家さんを対象としていた生家の寺では、特に墓地契約書といったものも取り交わさないままだったので、使用期限などを明確に謳った墓地使用約款のようなものもなかったように思う。

 

 数百基ある墓の中には、明治から大正時代の喜劇舞台で活躍した曾我廼家五郎十郎の墓や、円山応挙の高弟であった江戸時代の絵師長沢蘆雪の墓もあった。中には墓の土台に「土葬」と刻印されたものもあり、子供心に恐ろしく感じたりしたものだった。

 

 その無縁墓のすぐ横に、「養老院(今で言う老人ホーム)の墓」が建立されたのは、私がまだ小学生のころだった。私が生まれた年(昭和27年、1952年)に、戦後の身寄りのないお年寄りのために、祖父母が寺の境内に作った養老院であった。

 戦災孤児の施設が、全国的に充実してきた頃で、まだ「老人福祉法」が制定される前で、「生活保護法」の範疇の扱いだった。

 

 身寄りのないお年寄りが無縁墓やお地蔵さんのお世話をし、養老院の墓の世話もよくしていた。「誰かが手を合わせてくれるこの墓に、私もいつか入るのだ‥」そういった思いは、身寄りのないお年寄りにとって、大きな安心感になったに違いない。

 

 時折,亡くなったお年寄りの荷物を整理していると,衣装こおりの底から葬儀費用を納めた封筒が出てくることも,決して珍しいことではなかった.爪の先に火を灯すようにして貯め、自分の最後の後始末のための準備をしているのだ。

 

*曾我廼家五郎十郎(そがのやごろうじゅうろう、明治10年(1877年)9月6日 - 昭和23年(1948年)11月1日)は、日本の喜劇役者・喜劇作家。)

 

* 長沢芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は、江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。蘆雪とも。

 

 *写真:墓は寺の南端に、幼少時にあった曾我廼家五郎十郎の円柱形の墓石。

松竹の方が定期的に墓参に来ていた。現在は少し北側に移動している。

  *長沢芦雪作

 

 

 

一般社団法人 森になる

〒1020082 

東京都‎千代田区一番町 6-4-712

・富士山連絡先

〒401-0511

山梨県南都留郡忍野村忍草2674-1 

        ダイアパレス富士忍野A304

代表理事:河野秀海

morininaru@gmail.com

FAX:03-6740-9949

Facebook ページ

↑クリック

  携帯アクセス
  携帯アクセス